自己紹介

Pocket

みなさん初めまして!ゆりと言います。
どうぞ、よろしくお願いします。

目次

農家の孫として生まれる。

私は北海道の小さな町で生まれました。
6歳までは農家の孫として、
ハイジのような暮らしをしていました。

まるでジブリのトトロに出てくるような
木のトンネルを抜けた先に家があり、
その先に7ヘクタールにも及ぶ
じいちゃん自慢の畑が広がっていました。

両親が共働きだったので、私の相手をしてくれたのは
いつもじいちゃんとばあちゃんでした。

春になると近くの土手にはふきのとうが出てきて
それをばあちゃんと取りに行ったり、
カマを持ってじいちゃんとアスパラやトウキビ、
ナスを取りに行くのが私の日課でした。

自然が多い場所だったので、
外に出ればキツネや鹿と出会うこともありました。

今思えば、私はお友だちと公園で遊ぶよりも
自然の中で遊ぶのが好きな子でした。

いじめられっ子の過去。

小学校に上がるタイミングで引越しをしたのですが、
私の学生生活は明るいものではありませんでした。

今では考えられませんが、
当時の私といえば、おとなしく、友達も少なく
何をされても抵抗しない子だったので
よくいじめの標的にされていました。

いじめっ子たちにとって、私のような子は
一番のストレス発散の場だったのかもしれません。

叩かれたり、転ばされて膝を擦りむいたり
ひどい時には顔を怪我したこともありました。

当時担任だった先生には
「やられる側にも問題がある」と
バッサリ切り捨てられたのを覚えています。

社会人の陰湿なイジメ。

社会人になってからも私には試練が待っていました。

医療系の専門学校を卒業し、歯科衛生士となった私は
仲間と楽しく仕事する自分を思い描いていました。

ところが、私を待っていたのは陰湿なイジメでした。

高校卒業と同時に就職した先輩方に対し、
専門学校を卒業し、国家資格を取って入った私。

院長は私に
「お前は歯科衛生士なんだから、いずれはお前が主任になって、みんなを引っ張っていくんだぞ」と言いました。
私は素直に嬉しかったのですが、
それをよく思わない人がいました。

当時の主任です。
彼女は私の存在が邪魔だったのでしょう。
初日から私への嫌がらせは始まりました。

私だけが「呼び捨て」にされ
診療中でも院長がいないところで
私がやることなすこと全てに「ダメ出し」
「学校と臨床は違う」
私が学生の頃に習った知識、スキル、
全てを否定されました。

昼休みになれば、午後に使った器具の消毒・滅菌、
お茶汲み、電話対応、先輩方の湯呑み洗い、
先輩方の歯ブラシと歯磨き粉、コップの用意、
午後の診療の準備全てを一人でやりました。

仕事が終わってからも気は抜けません。
ここからが一番、地獄でした。
院長が帰った後、医局で先輩方に囲まれ
1時間以上の説教タイム。
いつも泣きながら帰っていました。

こんな地獄のような日々が毎日続きました。

主任はこう言いました。
「これは新人の登竜門なの。みんなやられたんだから、アンタもやられて当たり前なの。」

【自分がやられて嫌だったことをまた別の相手にやる】ということが私には理解できませんでした。

日に日に私の精神状態は悪化していき、
働き始めて1年を迎えようとした頃、
ついに私の心が限界を迎えました。

その日もいつも通り
母さんを心配させまいと笑顔で家を出ました。

そしていつも通り嫌がらせをされ、
診療後には説教タイム。
ボロボロになった私を見て
今日もすっきりした顔で帰っていく先輩方。

私は思いました。
「もう、終わりにしよう」って。

私の頭の中には家族の顔や、
私が担当していた患者さんの顔が浮かんでいました。

今飛び込めば…楽になれる。

そして気づいた時、私の身体は
半分ほどトラックの下に入っていました。

無事でした。ケガすらありませんでした。
ドジな私はどうやらタイミングを間違えたようです。

正確には、何か見えないチカラが
私を生かしてくれたようでした。

前の年に亡くなった
ばあちゃんだったのかもしれません。

泣きながら帰った私は、自分に誓いました。
「もう2度とこんなことはしない」と。

そして母にも「仕事を辞めたい」と伝えました。
「最低でも3年は頑張りなさいね」と言っていた母ですが、さすがにどんどん元気がなくなっていく私を見て、察してはいたようです。

院長に退職を伝えた後も何度も引き止められました。
「あと半年頑張れないか?あと3ヶ月は?」
結局、退職が決まったのは半年以上後になってからでした。

退職が決まってからは全員から無視されました。
誰も一言も口を聞いてはくれませんでした。

そして最終日、主任が口を開きました。
「アンタが一番長かったよ。前の子はすぐやめたけどね」と。

主任は私が入ってきたことで自分の立場が脅かされる不安から、言葉で私を傷つけることで権力を見せつけ、私が何も言えず泣くのを見て快感を得ていたのでしょう。

あの時の主任の不気味な笑みは今でも忘れられません。本当に辞めてよかったと思いました。

このように若いうちからあまり明るい人生を歩んでこなかった私ですが、20歳までの私は自分に自信がなく、全ての決断を他人に委ねていたんです。
でも、この後、私の人生は変化していきます。

上京「新たな人生の始まり」。

退職してから私は
大好きなディズニーのことを考えていました。
「そうだ、ディズニーランドに行こう!」と。

キラキラした非日常の世界。
ここなら誰も過去の私を知らない。
私はとてもワクワクしたのを覚えています。
そこからの私は早かったです。

北海道からとんぼ返りで面接を受けに行き、
住む物件を決め、すぐに採用が決定。

退職から3ヶ月後、くしくもばあちゃんの命日である11月11日に上京しました。

ここから私の人生は大きく変わっていきます。

歯科衛生士時代の貯金は引越しで全て消えましたが
それ以上にたくさんのものが入ってきました。

ディズニーでの毎日はいつも笑顔に溢れていました。
大切なことは全てディズニーで学んだと言っても過言ではないほど、人への思いやりや、おもてなし、先を見る目は、今でも私の人生で生かされています。

そして、25歳の時に10歳年上の彼と結婚。
それを機に私はディズニーランドを去りました。

その後、幸せな日々を送っていましたが、
私たち夫婦は子どもに恵まれませんでした。
何か身体に問題があるわけでもなく、
原因は分からず。
漢方薬や不妊治療も試しましたが、
どれもうまくいきませんでした。

そのうちに、転職をした私は仕事が楽しくなり、
完全に仕事人間になっていました。
旦那は旦那で、新しく始めたバーテンダーのお仕事で朝帰りするように。すれ違いが増え、喧嘩することも増えてきました。

そして30歳を迎える年に離婚。
5年半の結婚生活にピリオドを打ちました。

自分探しの旅へ。

離婚して一人になった私は、
バックパック一つを背負い旅に出ました。

高校生の時の留学以来の海外。
久しぶりの海外旅行はタイとカンボジアにしました。
物価が安く、人が温かい東安アジア。そしてこの開放感。

すっかり東南アジアの虜になった私は帰国後、
シフトの融通がきくバイトでお金を貯めては、
有給を使って旅するように。

そして、2回目のタイ行きのairasiaで不思議な出会いがありました。
たまたま座席が隣になった女の子と意気投合!なんとその子は私と苗字が同じ!血液型が同じ!誕生月が同じ!バツイチ!(笑)高校生の時にカナダのバンクーバーに留学していた!と共通点だらけ。
この運命的な出会いに驚きました。

そして帰国後に小さなボランティア団体を設立。
海外(東南アジア)に行き、孤児院やスラム街の子どもたちに絵を描いてもらい、それを商品化し販売。
販売収益でまだ文具を買い、子どもたちに絵を描いてもらうという活動をしていました。
(現在は活動休止中)

出逢いと転機。

そんな暮らしを続けていましたが、ある時、実家に帰るために乗った飛行機で、またまた不思議な出会いがありました。

ガラガラのjetstar。
ほとんど空席なのに、なぜか私はおじさんの隣の席。
座席変更も出来たけど、面倒だからとそのまま着席。

だけど、そのおじさんが私の人生を変える一人になるのです。

何氣ない会話から私の趣味だったドローンの話になり、意氣投合。
変な人だったらブロックすればいいや、という軽い氣持ちで連絡先を交換しました。

その時はわからなかったのですが、実はその方は北海道のイベント会社の社長さんだったのです。

その後、連絡があり再会。
何度か千葉でイベントのお手伝いをさせていただき、飛行機での出会いから1年後、その方の会社で働くことに。
12年住んだ千葉を離れ、北海道に戻って来ました。

ここからの1年は毎日が充実していました。
目まぐるしく忙しかったけれど、仕事に行くのが待ち遠しく、楽しくて楽しくて仕方なかったのを覚えています。

全国あちこち、行ったことのなかった場所への出張。同時にパソコンのスキルもどんどん上がっていきました。タイピングくらいしかできなかった私が、いつの間にか資料やポスターを作れるようになり、なんとホームページの制作までできるようになりました。

その他にも趣味だったドローンのイベントを開催したり、小さい頃から習っていた英会話や留学の経験が役に立ち、海外の企業との輸入取引も経験しました。

まさに「天職」でした。

ところが2020年、コロナの発生と共に全ては崩れていきます。

コロナと共に崩壊していく社会と変化していく人間関係。

コロナで大打撃を受けた業界をご存知でしょうか?
そうです。イベント業界です。
予定されていたイベントは全て飛びました。
損失は恐ろしいものでした。

いくら営業しても、みんなはコロナを怖がり、仕事は決まらない。すっかり氣力を失っていた社長に私は色んな提案をしました。

社長の過去の経験をもとにYoutubeをやってみたらどう?とか、インスタで投稿してみたら?とか。

デジタル社会に移行していく未来が見えていたので、SNSで発信することで色んな人にうちの会社を知ってもらって、コロナが明けた後、少しでもプラスになればいいなぁという氣持ちで薦めたのですが、これが後に私を苦しめることになります。

まさかこんな一言がきっかけで社長との関係が崩壊してしまうなんて、その時は知る由もありませんでした。

私はずっと社長を信頼してきました。社員は私だけだったので、喜びも悲しみも共に分かち合い、大変な時期も二人で一緒に乗り越えてきました。そして私は自分の人生を捧げても良いというほど、会社が大好きでした。

ところが、インスタでの出会いで社長は変わってしまいました。

「恋は盲目」と言いますが、みなさんご存知の通り、昔っからSNSなどのネットから始まる恋は簡単に熱しやすいのが特徴です。

私もまさかこんなことになっているとはつゆ知らず。
違和感を抱いていた点と点が一本の線で繋がり、確信に変わった頃には、時すでに遅しでした。

どこまで私を苦しめるんだろうというくらい、次から次へと辛いことが起こりました。

今ならはっきりとわかります。あの出来事は神様からの警告だったんだ!と。
「もうここでのあなたの役目は終わりだよ。ここにいちゃダメ。次のステージへ行きなさい。」って。

当時の私は社長や会社に「執着」していたんですね。そして何より社長を心から信じていたから、今まで一緒に頑張ってきた社長がこんなことするはずない。こんなひどい言葉を私に浴びせるような人間じゃない!何かの間違いだ!って社長を信じたくて、だからこそなかなか手放せなかったんです。

そして社長の「私への執着」は恐ろしい「怨念」へと変化していったのです。

社長には「お前なんか情で雇ってやってるんだ!」と言われ、当初、「私と仲良くやっていきたい」と言っていた彼女からは、インスタで散々誹謗中傷されました。相手を自分の良いように利用したいと思えば、言葉なんていくらでも作れます。こういう時こそ本性が出ます。

もちろんものすごく傷ついたし、嘘を書かれてイラッとしたりもしたけれど、私は二人を相手にしませんでした。

言い返したり、やり返したりして「相手と同じ土俵に立つ」ということは、自分のレベルを下げているのと同じだと知っているからです。

ショックで3日間で体重が5kgも落ちたのにはさすがに私も驚きましたが、離れてからたくさんの人に温かい声をもらいました。お世話になった取引先の営業担当の方や、何度か一緒にお仕事をした方…みんなが口を揃えて言うのは、「あの人から離れられて良かったね!」ということ。

これもまた面白い話ですが、やはり人が離れるのには理由があります。辛かったけれど、これで正解だったんだ!と確信した瞬間でした。

私はこの凄まじい人間関係の断捨離も、魂の成長の為の学びなんだとわかりました。

最後に。

だいぶ遠回りしてしまったけれど、私は今自由に、明るい未来を思い描きながら幸せに暮らしています。

過去の辛い出来事も今の自分を構成している一部だし、今までに起きたことは自分の成長のために必要だから起きたのであって、全ては必然なんです。無駄なことなんて一つもありません。あとは、自分がどう捉えるかです。

どうか今あなたの周りで起きていることが辛いことだったとしても、希望を捨てないでください。

そしてその出来事を俯瞰してみてください。それは本当に深刻な問題なのか、何日もかけて悩み、答えを出さなければいけないことなのか、答えはあなたの中にあるはずです。

全ては良い方向に向かっています

少しでもあなたの心に響くものがあれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次